<中学歴史解説>ペリー来航と開国

歴史

【前回のおさらい】天保の改革

前回は水野忠邦の天保の改革までの流れを見ていきました。

結果的に改革は幕府の財政を立て直せず,民衆や大名からの反発もあって,ドンドン江戸幕府の力も衰えていきます。

そんな中であの男が日本にやってきます!そうペリーです!

ペリー来航によって,江戸幕府の鎖国体制は終わりを告げます。どのように鎖国が終わったのか,そして開国後の日本はどのような状態だったのか。

この部分を詳しく解説していきます!

前回までの江戸幕府についてのまとめはこちらから!

日本史をまとめるにあたって,参考にした資料は以下の2冊です。

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ペリー来航と日米和親条約

1853年アメリカマシュー・ペリーが,2隻の蒸気船を含む計4隻の軍艦(黒船)を率いて浦賀(神奈川)に来航します。そして日本に開国を求めました。

開国を求めた理由

アメリカが開国を求めた理由は,

➀捕鯨を行うときの補給地点にしたかったから

清(中国)をはじめとするアジア進出の拠点にしたかったから

となります。

➀については,当時は石油が実用化されておらず,代わりに鯨の脂を使用していました。

そして捕鯨は主に日本の近くの海で行っていたので,日本が食料や燃料の補給ポイントとしてちょうどよかったわけです。

➁については,アメリカはアジアに進出して貿易の拡大を狙っていました。

地理的に,アメリカは太平洋を横断して清に向かうのが一番効率が良いわけですが,そのためには途中で燃料を補給する必要がありました。この理由でも日本の位置はベストでした。

そしてアメリカは,この目的を達成するためには武力で脅すのが一番早いと考え,黒船で来航したんですね。

実際に日本の人々は,黒船の来航にたいへん驚き慌てました。その状況を詠んだ以下のような狂歌もあります。

泰平たいへいの 眠りを覚ます 上喜撰じょうきせん たったはいで 夜も眠れず」

これは「上喜撰(高級なお茶)は4杯も飲むと夜も眠れなくなる」という意味と,「泰平(世の中が平和で穏やかなこと)な日本だったが,蒸気船が4隻来たことで夜も安心して眠れない」という意味があります。上喜撰と蒸気船を掛けています。

ペリーの開国要求に対して,江戸幕府は考える時間が欲しいということで,翌年に回答すると返事をしました。

ちなみに黒船が来航したとき,あとで出てきますが松下村塾しょうかそんじゅくを開いた吉田松陰よしだしょういんが,こっそり船に乗り込んでアメリカに密航しようとするという出来事もありました。

日本の国力をUPさせるためにアメリカを視察しようと考えたわけです。しかし結局はバレてしまい,投獄されてしまいました。

日米和親条約の締結と内容

この一件を経て,江戸幕府は開国すべきか悩むわけですが,このとき幕府は朝廷にもどうすべきか相談します。しかしこの行為が幕府にとっては良くない行為でした。

というのも,今まで日本は江戸幕府が一番の権力を握っており,そのため朝廷も幕府には従わざるを得ない状況になっていました。

ただ,今回の一件で幕府が朝廷に相談したために,幕府の方が朝廷より立場が上という関係性が崩れてしまうきっかけになったんですね。

ここから幕府の権威が落ち,朝廷の権威が増していくことにもなります。

さて,開国すべきか話し合いをしていた幕府ですが,結論は出ないままでした。

そして翌年1854年に再度ペリーが来日しましたが,そのときは計7隻の軍艦を率いてやってきました。前回よりも圧を強めてきたわけですね。

その圧倒的な軍事力を前に幕府は開国を認め,日米和親条約を締結しました。

これによって,下田(静岡)函館(北海道)の2港を開港し,アメリカ船に食料や燃料を供給することが許可されました。

ただ,このとき自由な貿易は許可していなく,あくまで日本が決めたものだけの取引でした。

しかし,もし日本がアメリカよりも有利な条約を他の国と結んだ場合は,その内容がアメリカにも適用されるという最恵国待遇さいけいこくたいぐうをアメリカに認めていました。

日米和親条約の締結によって,1639年から続いていた鎖国体制が終わりを告げました。

日米修好通商条約の締結

1858年,アメリカの総領事ハリスが日本に貿易を始めようと要求しました。

これに対して再び幕府はどうすべきか悩み,ハリスに考える時間が欲しいと言い,決定を先延ばしにしました。

そして大老井伊直弼いいなおすけは,朝廷の許可を得るべきだが,これ以上先延ばしができないような状態になったら仕方がないから締結しよう,と言いました。この結果,日米修好通商条約が結ばれました。

教科書では井伊直弼が朝廷の許可を得ずに勝手に条約を結んだと書かれがちですが,実際はそうではなかったんですね。もっと詳しく知りたい方は以下の書籍をぜひ読んでみてください。

日米修好通商条約の内容

日米修好通商条約の締結によって,函館新潟横浜神戸長崎の5港を開港して,ここでの自由貿易を認めました。

さらにアメリカに領事裁判権(治外法権)を認める日本に関税自主権がないという内容も含まれていました。

領事裁判権(治外法権)を認めるとは,日本で罪を犯した外国人を日本の法律で裁けないというものです。そのため日本側が被害を受けても,不利な判決になってしまいます。

関税自主権とは,貿易によって外国から輸入した商品に関税をかけられる権利のことです。

この権利が日本にはないため,外国から安い商品がドンドン入ってきてしまい,日本国内の商品が売れず国内産業が衰退してしまいます。

こういった点から,日米修好通商条約は不平等条約と言われているんですね。

ではなぜこんな不平等な条約を結んだかというと,ハリスから,イギリスとフランスも日本との貿易を求めているが,アメリカと条約を結んでくれればその2国が不当な要求をしてきたとしても守ってあげると言われたから,といわれています。

しかし結局,イギリスフランスオランダロシアとも同じように不利な条約を結んでいます。これを安政の五ヵ国条約と言います。

貿易では外国から毛織物や綿織物が輸入され,日本は生糸を輸出しました。

また,最大の貿易相手国はイギリスで,最初に条約を結んだアメリカとはほとんど貿易をしませんでした。

その理由は,1861年からアメリカ国内で南北戦争が起きており,アメリカが貿易どころではなかったからです。

安政の大獄と桜田門外の変

朝廷は許可を得ずに勝手に日米修好通商条約が結ばれたことに怒ります。

そして攘夷論じょういろん(外国を日本から追い出そうという主張)が強く,かつ幕府に対しても影響力を持っていた水戸藩に幕府を改革するよう命令を出します。これを戊午の密勅ぼごのみっちょくと言います。

しかしこれは江戸幕府からするとあってはならないことでした。

というのも,朝廷の命令が江戸幕府を介さずに各藩に下されるとなると,幕府の存在意義がなくなってしまうからですね。

そのため井伊直弼を中心とする幕府は,この密勅に関わった者たちを徹底的に弾圧していきます。

これが1858年から1859年にかけて行われた安政の大獄あんせいのたいごくです。

安政の大獄によって,松下村塾を開いた吉田松陰らが処刑されてしまいます。

松下村塾には後に日本の政治に大きな影響を与える人物が多数在籍していました。

例えば,初代内閣総理大臣になる伊藤博文いとうひろぶみ奇兵隊を組織し倒幕に貢献した高杉晋作たかすぎしんさく明治維新に貢献した木戸孝允きどたかよし,内閣総理大臣を2度務め,陸軍を創設した山県有朋やまがたありともなどです。

奇兵隊とは,長州藩(山口県)で結成された武士だけでなく庶民も属する軍団です。メンバーには先ほど挙げた山県有朋もいました。

奇兵隊は後に倒幕を達成するときの中心的軍隊として活躍します。

話が逸れましたが,安政の大獄によって井伊直弼は多くの人々から恨みを買うことになります。

そして1860年に江戸城の桜田門の近くで元水戸藩の武士に暗殺されてしまいます。これが桜田門外の変です。

余談ですが,井伊直弼は茶道の心得もある人物でした。そんな彼は現代でも広く使われている「一期一会」という四字熟語を広めた人物でもあるんです!

どちらかというと悪役のようなイメージがある井伊直弼ですが,少しは印象が変わりましたか?笑

ペリー来航と開国 まとめ

以上がペリー来航開国の流れになります。

開国をきっかけに一気に江戸幕府の体制が変化し,権力を失っていく様子が分かったかと思います。

そして次回からは,こんな状態じゃダメだ!日本を変えないと!と立ち上がる人々が出てきます!いよいよ江戸時代が終わり,新しい時代の幕開けに向かっていくわけですね。

江戸幕府滅亡までの流れを丁寧にまとめていくので次回もお楽しみに!

中学校では習わないようなプラスアルファの内容も含んでいますが,高校で習うのでまとめて覚えておくと便利かと思います!

何を学ぶにしても,まずは基本をしっかり理解して土台を作ってあげることです!

この記事を土台にして,そこから自分で調べてさらに積み上げていってください。

また,そこで知った知識を私にも共有してもらえると大変うれしいです!

知識はアウトプットすることで初めて定着します。アウトプット相手にも,ぜひこのブログを活用してください!

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