【前回のおさらい】鎖国の流れ
前回,徳川家康が開いた江戸幕府が,どういった経緯で鎖国に至ったのかを解説していきました。
今回は,鎖国下の江戸幕府の政治をより詳しく見ていきます!江戸の三大改革も説明していきます。
ここで学んだ基礎知識をもとに,より興味が湧いた!もっと詳しく知りたい!という方は色々調べてみてください!
徳川家康と江戸幕府の政治・外交ついてのまとめはこちらから!
日本史をまとめるにあたって,参考にした資料は以下の2冊です。
徳川綱吉の政治
まず5代将軍徳川綱吉の政治です。綱吉といえば,何といっても「生類憐みの令」が有名ですよね。
極端な動物愛護令として知られる生類憐みの令を出した人物として,正直あまり良い印象を持っている方は少ないと思います。
しかし近年の研究では,綱吉の評価が変わりつつあります。あなたが思っているようなダメ将軍ではなかったと考えられ,教科書の記述も変わってきています。
ではなぜ綱吉の評価が変わったのか?生類憐みの令の内容と一緒に見ていきましょう!
生類憐みの令
生類憐みの令は1685年に発令され,1709年に廃止されるまで百数十回にわたって内容が変化していきました。
内容としては,「魚や鳥を生きたまま食用として売ってはダメ」「犬や猫に芸を仕込んで見世物にしてはダメ」「犬に危害を加えた人がいたら密告しろ」などがありました。
特に犬に関するルールがたくさんありました。このため綱吉は「犬公方」と言われていますね。
そんなわけで犬を飼っている人はルールが多すぎて嫌になり,犬を捨ててしまう人が急増しました。
その結果,町には野犬があふれ,エサがないため人を襲ったりするようになりました。反対に野犬を殺すような人も出てきました。
そこで綱吉が行ったのが,御囲という犬を保護する施設を作ることでした。
御囲は複数あり,その広さはディズニーランド2個分にも及ぶものもあったそうです。犬は10万頭近く保護されたと言われています。
犬のエサ代や施設の維持費は70億円にも及んだようで,その費用は百姓の負担となりました。このあたりが,綱吉がダメ将軍と言われる理由ですね。
ではなぜ綱吉はこのような極端な動物愛護令を出したのか。それは野蛮な世界を変えたかったからと考えられています。
当時は捨て子が多く,道で人が倒れたりしていても見捨てるのがふつうの時代でした。また,辻斬り(道ですれ違った人を斬ること)も横行するなど,かなり殺伐とした時代だったんです。
綱吉は朱子学という儒教の中でも特に礼や思いやりを重視する学問を学んでいて,それを人々にも勧めていきました。綱吉自らが朱子学についての講義をすることもありました。
また,捨て子や人を見捨てることを禁止するよう命じたりもしました。
このように,綱吉は武力による支配ではなく,朱子学(儒教)の教えを広めることで世の中を治めようと考えたんですね。
確かに生類憐みの令によって人々には大きな負担をかけることになりましたが,一方で人々が思いやりの心を持つように努めたので,近年では綱吉の功績をたたえる記述も増えてきています。
新井白石と正徳の治
綱吉の死後,6代将軍になったのは家宣でした。そして家宣に仕えたのが儒学者の新井白石です。
新井白石は綱吉が行った政策を全否定し,一気に改革を進めていきます。
まず綱吉の時代に下がっていたお金の価値を元に戻します。
生類憐みの令によって幕府は多額の出費をしていたので,世の中に出回っているお金に含まれる金の量を減らすことで,お金の量を増やしていました。
しかしこれだとお金の価値が下がってしまうので,結果として物の値段が上がってしまい,庶民の生活は苦しいままでした。
新井白石はお金の質を元に戻し,さらに金と銀が外国に流出しないように,長崎での貿易に制限をかけました。また,生類憐みの令も廃止しました。
6代家宣と7代家継(8歳で死去)に仕え,新井白石が行った政治のことを正徳の治と言います。
徳川吉宗と享保の改革
7代将軍の家継は,4歳で将軍になりわずか8歳の時に亡くなってしまいます。
そして1716年に8代将軍になったのが徳川吉宗です。吉宗と言えば『暴れん坊将軍』で有名ですよね。
吉宗は新井白石をクビにし,自らが政治を行っていきます。そしてお金の使いすぎで悪化していた財政を立て直そうと改革をしていきます。
これが江戸三大改革の1つ「享保の改革」です。
では具体的にどういった政策を行ったのか,詳しく見ていきます。
質素倹約の徹底
お金の使いすぎを正すために,まず質素倹約,つまり節約を徹底していきました。将軍自らも食事は1日2食にし,それを家臣にも強制します。
そして大奥も改革していきます。
大奥とは,江戸城にある将軍の正室(正式な妻)や側室(その他の妻)が住んでいた場所のことです。正室や側室に仕えた女性(奥女中)を含めると,合計で数千人いたそうです。
吉宗の時代は4,000人近くいましたが,それを一気に解雇して1,300人ほどまで減らしました。
新田開発
節約をして支出を減らしたら,次は収入を増やすために改革を行っていきます。
そのために行ったのが新田開発を勧めることです。田んぼを増やして生産性を上げていこうという狙いですね。
また,米の収穫高にかかわらず,常に一定の年貢を納めることを義務づける定免法も制定しました。
これも幕府の収入を安定させる狙いでしたが,一方で凶作の時も年貢の量は変わらないので,百姓にとっては厳しいルールでした。
上げ米の制
上げ米の制は,参勤交代で江戸に滞在する期間を1年から半年にする代わりに,大名に米を納めさせるという制度です。
これによって収入を増やすことができましたが,一方で大名は余計な支出が減って資金を確保できるようになったため,幕末に大名が力を伸ばしていくきっかけにもなりました。
このようにお米に関する政策を行ったことから,吉宗は「米将軍」とも呼ばれています。
そして吉宗は,これ以外にも様々な改革を行っています。それも見ていきましょう。
目安箱の設置
吉宗は,庶民の意見を聞くための意見BOXである目安箱を設置しました。
これがきっかけで,江戸に無料の医療施設「小石川養生所」を設置したり,消防組織である町火消し制度をつくったりしました。
公事方御定書の制定
公事方御定書は裁判の基準です。これによって裁判が迅速に行えるようになりました。
甘藷の栽培
甘藷とはサツマイモのことです。
1732年に享保の大飢饉が発生し,食べ物が収穫できなくなり餓死者が1万人以上出てしまいました。
この反省を踏まえて,青木昆陽という人物に命じてサツマイモの栽培を研究させました。
ヨーロッパ書物の輸入許可
鎖国によって海外との交流は制限していましたが,キリスト教に関する内容でなければ,ヨーロッパ書物の輸入をOKにしました。
ここからオランダ語で西洋の学問を学ぶ蘭学がさかんになりました。特に有名なのは杉田玄白と前野良沢がオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳し,『解体新書』を出版したことですね。
彼らは辞書なしでオランダ語を翻訳したそうです!
他にもオランダ人医師のシーボルトは,「鳴滝塾」を開いて日本人に医学などを教えました。
享保の改革 結果
この一連の改革によって,幕府の財政は一時的に回復しました。
しかし飢饉などの影響もあって,年貢の引き下げを要求する百姓一揆が増加しました。
また,米を買い占めた商人の家を襲撃する打ちこわしも増加し,完璧な立て直しとはなりませんでした。
しかし吉宗の型にとらわれない様々な改革は,後世でも高く評価されています。
徳川綱吉と徳川吉宗の政治 まとめ
以上が鎖国下の江戸幕府の政治になります。
ダメ将軍と思われていた綱吉が今では評価が変わってきていること,『暴れん坊将軍』で有名な吉宗が革新的な政策で幕府を立て直そうとしたことなど,意外と知らないことも多かったのではないでしょうか?
しっかり調べて学び直してみると,色々な発見や気づきがあり面白いですね!
次回は江戸幕府の三大改革の続きをまとめていきます。吉宗の後にはどのような人物が改革を行っていくのか。次回も楽しみにしていてください!
赤字やマーカーが引いてある箇所は中学校でほぼ確実に習うものです。解説は中学校では扱わないような,ちょっとプラスアルファの内容も入っています。
何を学ぶにしても,まずは基本をしっかり理解して土台を作ってあげることです!
この記事を土台にして,そこから自分で調べてさらに積み上げていってください。
また,そこで知った知識を私にも共有してもらえると大変うれしいです!
知識はアウトプットすることで初めて定着します。アウトプット相手にも,ぜひこのブログを活用してください!
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