<中学歴史解説>飛鳥時代と大化の改新

歴史

中学校の歴史の授業前半で習う「飛鳥時代」についてまとめていきます。

古墳時代には大和政権が誕生し,その支配を大きく広げていきました。そして大和政権の中でも特に権力の強い豪族が登場し,それを機に日本の政治の仕組みも変化していきます。

この様子を詳しく説明していきますよ!

歴史をまとめるにあたって,参考にした資料は以下の2冊です。

前回までの内容は以下のリンクからご覧ください。

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飛鳥時代

蘇我氏の台頭

大和政権が勢力を強める中で,蘇我氏そがし物部氏もののべしという2つの一族が特に強大な権力を握っていました。

そんな中,古墳時代には渡来人を通じて,百済くだらから仏教が日本に伝わってきましたね。

そしてこの仏教を日本に取り入れるかをめぐって,蘇我氏と物部氏が対立します。

日本には神道しんとうという,日本神話の神々を信仰する教えが存在していました。最高神を天照大御神あまてらすおおみかみとし,天皇は天照大御神の子孫であると考えるものです。

物部氏も日本神話の神を先祖にもつ一族だったので神道を厚く信仰しており,仏教には反対の考えを持っていました。

しかし,百済の王様から伝えられた仏教や,その時に贈られた仏像などを捨てるわけにはいきませんでした。こんなことをしたら国際問題に発展してしまいますからね。

また,この時代はアジアの多くの国が仏教を取り入れていたため,仏教を信仰している国はいわば先進国の証にもなっていました。

一方で蘇我氏は仏教を取り入れるべきだと主張します。蘇我氏は国際的な日本の立場を考え,他国が仏教を取り入れているのに,日本だけ取り入れないのはおかしいと主張したわけです。

こうして蘇我氏と物部氏は激しく対立するようになります。そして最終的に蘇我馬子そがのうまこが物部氏を攻撃して滅ぼし,蘇我氏が政治の実権を握ることになりました。

ちなみに蘇我氏と物部氏の戦いに,当時14歳の聖徳太子が蘇我氏側で参戦したと言われています。

聖徳太子の政治

政治の実権を完全に握っていた蘇我馬子は,593年に蘇我氏の血を引く推古天皇すいこてんのうを即位させます。

推古天皇は日本で最初の女性の天皇です。そして天皇が女性の時は政治の補佐をする役職が必要でした。

天皇が女性か幼少のときに政治の補佐をする役職摂政せっしょうといい,日本最初の摂政に聖徳太子が任命されました。

ここから聖徳太子が政治の改革を行っていきます。

冠位十二階

まず603年に冠位十二階かんいじゅうにかいという制度を設けます。

これは役職の階級を偉い順に紫・青・赤・黄・白・黒の計6色の冠の色と,その濃淡で分けたものです。

冠位十二階の大きなポイントは,役職に就く人物家柄ではなく,能力や功績によって決めたという点です。

これまでの日本では家柄が重視されていました。そのため家柄さえよければ,能力がなくても良い役職に就けていたわけです。

ただ,蘇我馬子はこの制度の例外であるなど完璧に機能していたとは言えませんが,こういった制度を作ったということは画期的なことでした。

十七条の憲法

604年には,十七条の憲法を制定しました。これは今で言う国のルールである憲法とは違って,天皇に仕える役人の心構えを示したものです。

条文はその名の通り17個あり,そのうちの最初の3つは教科書にも書かれる重要なものなので確認していきましょう。

「一にいわく,和をもったっとしとなす」

簡単に言えば「仲良くしましょう」ということです。この時代は豪族同士の争いが絶えなかったため,こういった内容が書かれたというわけですね。

「二に曰く,あつ三宝さんぽううやまへ」

三宝とは仏・法・僧のことを指します。仏は仏様,法は仏教の教え,僧はお坊さんのことですね。

「三に曰く,みことのりうけたまわりては必ずつつしめ」

詔とは天皇の命令のことです。天皇の命令には必ず従うこと,という内容になります。

十七条の憲法の内容から,聖徳太子は和を重んじて,仏教を重視したことがよく分かりますね。

遣隋使の派遣

中国では581年ずいが成立していました。そして607年に聖徳太子は隋に小野妹子おののいもこを派遣しました。これを遣隋使けんずいしといいます。

この時代よりも前から日本は中国に使いを送っていましたね。当時の中国はアジアの中心だったため,貢ぎ物を送ることで中国に認めてもらい,後ろ盾を得ようとしていました。このことを朝貢ちょうこうといいます。

しかしこのとき聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙の内容は恐ろしいものでした。

手紙には「日づるところの天子,書を日ぼっするところの天子に致す。つつがなきや。」と書かれていました。

これを現代語訳すると,「日が昇る国の王である私が,日の沈む国の王に手紙を送る。調子はどうか。」といった内容になります。

地理的に考えると日本が東側,中国が西側にあたるので,日が昇る・沈むという表現は間違ってはいませんが,国際的なやり取りでこのように文字通り受け取ることはないですよね。

日が昇るは国の繁栄,日が沈むは国の滅亡を指していると捉えられます。この手紙を貰った隋の皇帝である煬帝ようだいは激怒します。

しかし当時の隋は他国と戦争状態にありました。そのため日本まで敵に回してしまうと面倒なことになるので,激怒はしたものの小野妹子をそのまま日本に帰らせました。

そして翌年には,隋から日本に使者がやってきて交流が開始されました。

飛鳥文化

聖徳太子が活躍した頃の文化を飛鳥文化といいます。飛鳥文化の特徴は,仏教中心の文化であることです。

飛鳥文化で代表的なものは奈良の法隆寺ですね。聖徳太子が建てた日本で最古の木造建築物です。

法隆寺

法隆寺には鞍作鳥くらつくりのとりがつくった釈迦三尊像しゃかさんそんぞうや,作者不明の百済観音像くだらかんのんぞう,玉虫の羽が貼ってある玉虫厨子たまむしのずしといった国宝もあります。

釈迦三尊像
百済観音像
玉虫厨子

大化の改新

聖徳太子の死後,蘇我氏が政治の実権を握り,自分の思うがままに政治を行うようになりました。

そして蘇我入鹿そがのいるかは聖徳太子の息子である山背大兄王やましろのおおえのおうを襲撃してその一族を滅ぼし,ますます好き放題するようになっていきます。

このような状況に,当然蘇我氏に対する人々の不満は高まっていきます。そこで中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたりは蘇我氏を滅ぼそうと決意します。

2人は朝鮮半島の国から使節が来たから天皇に貢物を渡す儀式をすると言って,蘇我入鹿を皇居に呼び出します。

天皇の目の前で行われる儀式なので,さすがの蘇我入鹿も刀を持つことはできません。そして儀式の最中に中大兄皇子が襲いかかり蘇我入鹿を殺害します。645年のこの出来事を乙巳の変いっしのへんといいます。

この出来事の後,蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷そがのえみしが自分の屋敷に立てこもりますが,中大兄皇子らに囲まれたため,自ら屋敷に火を放って自害しました。

こうして蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子らは年号を大化とし,さらに翌年に都を奈良から難波なんば(大阪)にうつして改新の詔かいしんのみことのりを発表します。

ここから新たな政治改革が始まっていきます。この一連の改革を大化の改新たいかのかいしんといいます。

飛鳥時代 まとめ

以上が飛鳥時代のまとめになります。

聖徳太子が行ったこと,そして聖徳太子の死後に独裁的な政治を行った蘇我氏はどのようにして滅んだのか。その流れと内容をしっかりと押さえていきましょう。

次回は大化の改新の内容と律令国家の成立についてまとめていきます。次回もお楽しみに!

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