<中学歴史解説>田沼の政治と寛政の改革

歴史

【前回のおさらい】徳川綱吉と徳川吉宗

前回,徳川綱吉の「生類憐みの令」から,8代将軍徳川吉宗が行った「享保の改革」までの流れを説明していきました。

>鎖国下の江戸幕府の政治

今回は享保の改革でも完全には立て直しきれなかった幕府の財政を回復すべく,2人の人物が改革を行っていきます!田沼意次たぬまおきつぐ松平定信ですね。

彼らの改革は実に対照的なものでした。その内容を一緒に見ていきましょう!

ここで学んだ基礎知識をもとに,より興味が湧いた!もっと詳しく知りたい!という方は色々調べてみてください!

前回までの江戸幕府についてのまとめはこちらから!

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田沼意次の政治

徳川吉宗享保の改革によって,以前と比べると幕府の財政は回復しましたが,それでも苦しい状況は変わらずでした。

そんな中で1772年に老中に就任したのが田沼意次です。

当時の十代将軍である家治いえはるは,自分であまり政治をしなかったので,田沼意次が代わりに政治を行いました。

田沼の政治の大きな特徴は,農業から商業中心の政治に切り替えたことです。

農業を重視する考え方を重農主義,商業を重視する考え方を重商主義と言います。

では具体的にどのような政策を行っていったのか解説していきます。

株仲間の奨励

株仲間とは,営業を独占する同業者のグループです。

例えば,しょうゆを売りたいと思ったら,しょうゆを売る株仲間に所属していないと売ることができない,といったものです。

室町時代に「座」というグループがありましたが,それとほとんど同じです。座は織田信長「楽市楽座」によって廃止されましたね。

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そして株仲間は,幕府にお金(冥加金みょうがきん)を納めることで独占を認めてもらっていました。

しかしこれによって,商人たちは営業の独占を幕府に認めてもらうためにお金を渡すことが急増しました。つまり賄賂わいろが横行していったということですね。

この賄賂の横行が,後の田沼意次の失脚に繋がっていきます。

蝦夷地の開発

新井白石によって,金と銀の流出を防ぐために長崎貿易は制限されていました。しかし田沼は長崎貿易を活性化させようとします。

そこで蝦夷地えぞち(北海道)を開発して海産物を採れるようにし,それを金や銀の代わりに輸出しようと考えました。

このとき輸出された海産物はフカヒレやほしあわびなどで,それらは俵に詰められていたので俵物たわらものと呼ばれています。当時の中国人にはかなりの人気だったそうです。

また,俵物を輸出することで逆に金や銀を輸入しようという狙いもありました。

印旛沼の干拓

さらに田沼は,土地を増やしてお米の収穫量を増やすために印旛沼いんばぬま(千葉県)の干拓かんたくを行いました。

干拓とは,堤防を作って水が入らないようにして乾かすことで土地を作ることです。しかしこれは途中で洪水被害にあってしまい,失敗に終わりました。

田沼意次の失脚

当時では非常に革新的な改革を行った田沼でしたが,商業中心の政策だったため,農民からの評判は良くありませんでした。

そんな中で1782年に天明の飢饉てんめいのききんが起こって凶作になり,さらに翌年には浅間山の大噴火もあり,人々の生活は大変苦しくなっていました。

そうすると人々の不満は当然,当時の政治の中心人物である田沼意次に向かいます。そして先ほどの株仲間のところで書いたように賄賂が横行していたのもあって,人々の怒りは一層高まりました。

このため,10代将軍家治が死去すると,それと同時に田沼意次も老中を解任されてしまいました。

松平定信の寛政の改革

10代将軍家治の後を継いだのは,11代将軍家斉いえなりです。そして家斉は,老中松平定信を起用しました。

松平定信は白河藩(福島)の藩主です。天明の飢饉によって悪化していた白河藩の財政を立て直したことで評価を上げ,1787年に老中に就任しました。

彼が行った改革を寛政の改革と言います。

寛政の改革の特徴は,田沼意次によって商業中心になった政策を,もう一度農業中心の政策に戻したことです。

では具体的な内容を見ていきましょう。

帰農令

田沼意次の重商主義によって,江戸には農業を辞めて商売をしに来る人々がたくさんいました。

そんな人々に対し,農村に帰ってもう一度農業に従事するよう命じました。これが帰農令きのうれいです。

こうすることで米の収穫量を確保しようとしました。

囲米の制

囲米の制かこいまいのせいは,今までの飢饉が起きたときの反省を踏まえて,飢饉に備え米を蓄えておくように大名に命じた制度です。

棄捐令

棄捐令きえんれいとは,旗本や御家人といった武士が,町人にしていた借金を帳消しにした命令です。鎌倉時代の永仁の徳政令と同じ感じですね。

これは武士の救済と,経済力をつけ始めていた町人の力を弱めることを目的としていました。

寛政異学の禁

江戸に幕府が運営する昌平坂学問所しょうへいざかがくもんじょをつくり,そこでは朱子学以外の学問を教えることを禁止しました。これを寛政異学の禁かんせいいがくのきんと言います。

朱子学は,5代将軍綱吉が特に奨励していましたね。上下関係を重んじる学問です。

しかしこの頃には朱子学の人気が衰え,朱子学から派生した学問がいろいろと誕生していました。

松平定信は朱子学を重んじる人物だったため,学問を統一するためにも朱子学以外を禁止にしました。

人足寄場の設置

人足寄場にんそくよせばとは,江戸に建てられた職業訓練施設です。

無宿人という戸籍から消された住所を持たない者や,犯罪を犯した者を収容して,自立させることを目的としました。

また,こういった者たちを収容して仕事をさせることで,町の治安を良くするためでもありました。

松平定信の失脚

寛政の改革によって幕府の財政は一時的に回復しましたが,厳しい政策が多かったことから庶民から不満の声が続出します。また,幕府内の人間からも不満の声が上がってきました。

庶民の不満を表したこのような狂歌(政治などを皮肉った短歌)も詠まれました。

白河しらかわきよきにさかなみかねて もとにごりの 田沼恋たぬまこいしき』

意味としては『白河は水がきれいで澄みすぎているから,かえって魚は住みにくい。それなら濁っている田や沼の方が良かった。』というものと,

『白河藩主だった松平定信の政治は確かにクリーンだけど,あまりに厳しくて堅苦しい。それなら賄賂が横行したり汚い部分もあったけど,田沼意次の時代の方が良かった』という2つの意味があります。

このように,松平定信の寛政の改革は多くの人の反感を買ってしまいました。その結果,6年ほどで失脚してしまいます。

田沼の政治と寛政の改革 まとめ

以上が田沼意次の政治と,松平定信の寛政の改革になります。

商業を重視した革新的な政治を行った田沼意次と,それを元に戻そうとした松平定信。

非常に対照的な2人ですね。それぞれの政治の内容はしっかり覚えておきましょう!

中学校では習わないようなプラスアルファの内容も含んでいますが,高校で習うのでまとめて覚えておくと便利かと思います!

何を学ぶにしても,まずは基本をしっかり理解して土台を作ってあげることです!

この記事を土台にして,そこから自分で調べてさらに積み上げていってください。

また,そこで知った知識を私にも共有してもらえると大変うれしいです!

知識はアウトプットすることで初めて定着します。アウトプット相手にも,ぜひこのブログを活用してください!

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