【前回のおさらい】江戸幕府の政治
前回,徳川家康が開いた江戸幕府が,どのようにして大名や民衆をコントロールしていったのかをまとめていきました。
今回は,江戸幕府の外交をより詳しく見ていきます!いわゆる「鎖国」に至るまでの経緯を追っていきます。
ここで学んだ基礎知識をもとに,より興味が湧いた!もっと詳しく知りたい!という方は色々調べてみてください!
徳川家康と江戸幕府の政治ついてのまとめはこちらから!
日本史をまとめるにあたって,参考にした資料は以下の2冊です。
江戸幕府 鎖国 概要
鎖国で有名な江戸幕府ですが,江戸時代の初期はむしろ積極的に外国と交流をしていました。
そんな江戸幕府が,なぜ外国との交流を控えるようになっていったのか。その流れを見ていきましょう。
まずは最低限覚えておきたい内容を簡潔にまとめていきます。
朱印船貿易
大名や商人に海外渡航を認める朱印状を与え,行われた貿易
この結果,東南アジア(タイ,ベトナム,フィリピンなど)に多くの日本人が移住し,日本町が作られる
鎖国までの流れ
1612年,禁教令を出す(理由:キリスト教があまりにも日本国内に広まりすぎたため)
幕領(大阪・江戸・京都・長崎など)でのキリスト教を禁止し,次第に強化されていく
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1624年、スペイン船の来航禁止
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1634年,長崎県に人工島である出島を築いてそこにポルトガル人を移し,中国船も長崎以外の港に来ることを禁止
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1637年,キリスト教徒の迫害や年貢の取り立てに苦しんだ島原(長崎)や天草(熊本)は天草四郎を大将に一揆を起こす(島原・天草一揆)
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1638年に幕府は一揆を鎮圧し,禁教を一層強化する
1. キリストなどの像(踏絵)を踏ませることでキリスト教徒を特定する絵踏
2. 寺に仏教徒であることを証明させる宗門改
3. 1639年,ポルトガル船の来航禁止
4. 1641年,平戸(長崎)のオランダ商館を出島に移し,中国とオランダの船だけが長崎で貿易することを許可された
⇒鎖国
鎖国下の外交
・中国…当時は清という王朝で,中国の生糸や絹織物などを日本は必要としており貿易を続けた
・オランダ…キリスト教の布教を行わなかったため貿易を許可。海外の事情の報告書(オランダ風説書)を提出させる
・朝鮮…対馬藩(長崎)を窓口として繋がっており,1607年から江戸幕府の将軍が変わるごとにお祝いとして朝鮮通信使が来日
・琉球王国…薩摩藩(鹿児島)を窓口として繋がっており,江戸幕府の将軍や琉球国王が変わると,琉球からの使節を江戸に連れてきて将軍に面会させた(琉球使節)
・アイヌ民族…蝦夷地(北海道)で暮らす民族で,松前藩(北海道南部)との不公平な取引に不満を持ち,1669年に首長のシャクシャインを中心に乱を起こすが失敗
江戸幕府 鎖国 解説
朱印船貿易
最初にも言ったように,江戸幕府の初期は外国とさかんにやり取りをしていました。そのときに行われていた貿易を朱印船貿易と言います。
これは海外に行くことを許可する許可証が朱印状と呼ばれていたことに由来します。
貿易相手は東南アジアの国が多く,シャム(今のタイ)などに行って,そこに日本人が住む町(=日本町)が作られるようになりました。
禁教令
最初は朱印船貿易の利益を重視していたのでキリスト教はOKしていましたが,どんどんキリスト教徒の数が増えていきました。これは江戸幕府にとっては都合が悪いんですね。
なぜ悪いかと言うと,江戸幕府で1番偉いのはもちろん将軍です。
一方でキリスト教は「神」もしくは神の子である「イエス」を信じる宗教です。そのため神やイエスがキリスト教徒にとって1番上に位置する存在になります。
こうなると問題が発生しますね。キリスト教徒にとって,将軍は1番上の存在にはならないんです。だから将軍の命令よりも宗教を優先するようになってしまいます。
これは幕府にとって良くないことなので,キリスト教を禁止することになりました。
また,これ以外にもオランダの存在が禁教に至った要因とも言われています。オランダもキリスト教の国ですが,キリスト教の中でもプロテスタントという宗派です。
一方で当時日本にキリスト教を広めていたポルトガルは,キリスト教の中でもカトリックという宗派で,プロテスタントとカトリックは対立していました。
そこでオランダは江戸幕府に,「ポルトガルはキリスト教を広めて日本を乗っ取ろうとしていますよ」と告げ口をしました。
また,「私たちは特にキリスト教を広めるつもりはなく,ただ貿易をしたいだけです」とも言いました。
これによって日本は最終的にポルトガルを追い出すことに決め,オランダは日本と引き続き貿易を行う権利を手に入れることができました。
島原・天草一揆
禁教令が発布され,キリスト教への弾圧はどんどん強くなっていきました。特に天草(長崎)の人々は幕府に対して不満が高まっていきました。
そんなときに現れたのが「天草四郎時貞(本名:益田四郎)」でした。当時16歳の少年です。
もともと天草にいた神父が「25年後に,16歳の神の子が現れて人々を救うだろう」と言い残していて,それにちょうど該当したのがこの天草四郎でした。
天草四郎の伝説はいろいろと語られています。例えば「海の上を歩いた」「病人の頭に手を置いたら病気が治った」などです。気になった方は調べてみてください。
さて,まさにお告げの通り神の子が現れたということでキリスト教徒は団結し,天草四郎をリーダーとして幕府と戦うことを決意しました。これが島原・天草一揆です。
一揆の勢いはすさまじく,幕府も鎮圧するのに苦労しますが,4か月に及ぶ戦いの末に幕府側が勝利しました。最終的には,天草四郎を含む子どもから大人まで全員が処刑となりました。
禁教の徹底
島原・天草一揆を受けて,幕府はキリスト教の禁止を徹底することに決めます。まず行ったことが絵踏です。
絵踏はキリストや聖母マリアなどが描かれた像を踏ませることで,キリスト教徒を発見しようというものです。キリスト教徒なら,絶対に踏むことは出来ないですからね。
宗門改は,人々は必ずどこかのお寺の檀家(特定のお寺を支援する家)になるように強制されました。
要するに仏教徒になるようにということですね。そしてお寺にも,檀家が仏教徒であることを幕府に証明させました。
そして禁教のところで書いたようにポルトガル船の来航を禁止し,貿易は中国とオランダのみと行うことにしました。この貿易も,長崎にある人工島の出島限定で行われました。
これによって1639年に鎖国が完成しました。最近では海禁政策と呼ばれることもあります。
鎖国下の外交
概要の鎖国下の外交に補足していきます。
〈オランダと清(中国)〉
鎖国によって日本は海外の情報がほとんど入ってこなくなったので,オランダにはオランダ風説書を,清には唐船風説書を提出させ,それによって海外の情報を入手していました。
〈朝鮮〉
朝鮮とは豊臣秀吉の朝鮮出兵によって国交が断絶していましたが,徳川家康が対馬藩の宗氏に国交を回復するよう依頼し,宗氏の努力もあって朝鮮通信使が送られるようになりました。
朝鮮通信使は江戸幕府の将軍の代がわりごとにお祝いとして,300~500人近くの人数でやってきました。江戸時代には計12回来日しています。
〈琉球王国〉
琉球王国は当時日本とは独立した1つの国でした。日本と琉球王国は薩摩藩が窓口となって繋がっていました。
江戸幕府の将軍の代がわりには慶賀使,琉球国王が即位したときには謝恩使と呼ばれる使節が派遣されました。これをまとめて琉球使節と言います。
江戸幕府 鎖国の理由 まとめ
以上が江戸幕府の外交になります。
ポイントは,鎖国といっても外国との交流を一切絶っていたわけではないという点です。
鎖国にはキリスト教が大きく関係しています。初めはキリスト教を容認していましたが,徐々に弾圧を強め,最終的には完全に禁止しました。
ここまでの流れをしっかり理解しておきましょう!
次回以降は江戸幕府の改革をまとめていきます。ここから江戸幕府に様々な問題が降ってくることになりますが,それを解決しようと改革を行う人物が登場します。
『暴れん坊将軍』で有名なあの人も出てきますよ!次回もお楽しみに!
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