<中学歴史解説>大化の改新と律令国家

歴史

中学校の歴史の授業前半で習う「大化の改新と律令国家の成立」についてまとめていきます。

聖徳太子の死後,政治の実権を握り自分の思うままに政治を行った蘇我氏を中大兄皇子と中臣鎌足がクーデターを起こし倒しましたね。

そこから中大兄皇子を中心に政治改革を行っていきます。これが大化の改新です。

今回は,その大化の改新の内容と律令国家が完成するまでの様子をまとめていきます!

歴史をまとめるにあたって,参考にした資料は以下の2冊です。

前回までの内容は以下のリンクからご覧ください。

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大化の改新

日本初の元号「大化」

前回の内容と被りますが,645年乙巳の変いっしのへんの後,孝徳天皇が第36代の天皇に即位しました。そして日本で最初の元号である「大化」が定められました。

自分たち独自の元号を定めることは,この時代だと非常に大きな意味を持っていました。というのも,当時のアジアの中心は中国でしたよね。

そして日本も中国に朝貢を行っており,中国の属国という立ち位置でした。そのため元号も中国が制定したものを使っていたんですね。

しかし日本は自分たちで独自の元号を定めていくことに決めました。これはつまり,「日本は中国の属国ではなく,独立国として進んでいく」ということを示しているわけです。

今の元号は「令和」ですが,645年から今に至るまで248個の元号が使われています。

改新の詔

646年に孝徳天皇は改新の詔を発表します。もちろん中大兄皇子も内容に関与していますよ。

中大兄皇子らが目指した政治の在り方は「中央集権化」です。つまり日本のトップに立つ天皇が中心となる政治体制を確立しようと考え,そのために政治改革を行っていくわけですね。

では具体的にどういった内容なのか確認していきましょう。

公地・公民

公地・公民とは,土地と国民はすべて国(天皇)のものとする,という仕組みです。

今までは各地の豪族がそれぞれ自分の土地を持っていて,その土地の人々を支配していました。

それをすべて天皇が支配するという形に変えました。こうすることで天皇が日本の支配者であることが明確になりますね。

班田収授法

班田収授法はんでんしゅうじゅのほうとは,戸籍を作って6歳以上のすべての人に口分田くぶんでんを与え,米を納めさせるという制度です。

口分田を売買するのは禁止で,所有者が亡くなると口分田は国に返されました。

この制度は唐の制度を参考に作られたもので,本格的に行われたのは701年からになります。

この他にも,税制度の改革にも取りかかります。ここは後ほど詳しく説明します。

白村江の戦い

日本が改革を行う中で,中国や朝鮮の情勢も変化してきていました。まず唐が朝鮮半島にも勢力を広げていこうと考えていました。

一方で朝鮮半島も,高句麗新羅百済の三国が朝鮮半島を統一しようと争っている状況でした。そこに唐が加わり,唐と新羅が同盟を結びます

こうして,660年に唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼします。百済は国を何とか再興するために,仲の良かった日本に助けを求めました。

そして663年に日本は朝鮮半島に向けて大軍を送り,朝鮮半島の南西部にある白村江はくそんこうという場所で,唐・新羅の連合軍と戦いました(白村江の戦い)。

しかし日本・百済軍は敗れてしまい,そのまま勢いに乗った唐・新羅は668年に高句麗も滅ぼします

その後は同盟を結んでいた唐と新羅が対立します。どちらも朝鮮半島の支配を狙っていたので当然と言えば当然ですね。

ではどうなったかというと,新羅が唐を追い返すことに成功します。そして676年新羅が朝鮮半島を統一しました。

天智天皇の即位

唐・新羅に敗れた日本は,九州の守りを固めます。次いつ日本に攻めてくるかが分からないからですね。

大宰府だざいふ(北九州)に城をつくり,さらにそこを守る兵士を全国から集めました。この兵士のことを防人さきもりといいます。

667年には奈良の飛鳥にあった都を滋賀の大津宮おおつのみやに遷都し,そして668年中大兄皇子は第38代天皇,天智天皇として即位しました。

壬申の乱

671年天智天皇が亡くなると,その後継ぎをめぐって弟の大海人皇子おおあまのおうじと息子の大友皇子おおとものおうじが対立し,争いが起きました。これが672年壬申の乱じんしんのらんです。

壬申の乱の結果,勝利したのは弟の大海人皇子でした。大海人皇子はそのまま天武天皇てんむてんのうとして即位し,飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやという都で政治改革を実施します。

律令国家の成立

天武天皇は引き続き天皇を中心とする中央集権化を進めていきます。また,富本銭ふほんせんという日本で最初の貨幣もつくりました。

さらに唐の都である長安を参考にして,藤原京という都の造営にも取りかかりました。

天武天皇の後を継いだのは持統天皇じとうてんのうという女性の天皇です。持統天皇は天武天皇の皇后です。

そして696年に天武天皇が取りかかっていた藤原京が完成し,そこに遷都しました。

持統天皇の後を継いだのは孫の文武天皇もんむてんのうです。

文武天皇は,701年に唐の律令にならって大宝律令たいほうりつりょうを制定しました。とは刑罰の決まりのことで,とは政治の仕組みなどの決まりのことです。

そして律令に基づいて政治を行う国家のことを律令国家といいます。

租庸調制

大宝律令では,税制度(租庸調制そようちょうせい)の仕組みもつくられました。1つずつ詳しく見ていきます。

は口分田を与えられた人全員が,収穫量の3%の稲を国に納めるという税です。

よう成年男子に課された税で,都で年に10日間の労働を行うか,その代わりに都にを納めるというものです。

調

調ちょう成年男子に課された税で,都に地方の特産物を納めるというものになります。

雑徭

雑徭ぞうよう成年男子に課された税で,国司のもとで1年に60日ほどの労働を行うものです。

防人

防人さきもり成年男子に課された税で,3年間九州の警備を行うというものです。

この他にもいくつか税はありますが,見ての通り国民からすると非常に厳しいものでした。しかも都や九州に行くときの費用もすべて自腹になります。

さらに成年男子に課される税が多いですよね。そのため戸籍に女性と偽って登録する者が増えたり,口分田を投げ出して逃げる人が増加しました。

他には,土地を返したくないから戸籍上では亡くなっていないことにする,といった偽りも増えました。口分田の所有者の死後は国に返却しないといけませんでしたね。

このように,唐を参考にして律令国家としての歩みを進めてきた日本ですが,その内容に不満を覚える人も増え,公地・公民の原則も徐々に崩れ始めていきます

大化の改新と律令国家 まとめ

以上が大化の改新と律令国家のまとめになります。

大化の改新によってどういった政治改革が行われたのか,そしてその結果日本はどうなっていったのか。その流れをしっかりと理解していきましょう!

次回は奈良時代についてまとめていきます。次回もお楽しみに!

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