中学校の歴史の授業前半で習う「縄文・弥生時代」についてまとめていきます。
日本ではどのようにして文明が発展していったのか,その始まりの部分を詳しく解説していきます!
歴史をまとめるにあたって,参考にした資料は以下の2冊です。
前回までの内容は以下のリンクからご覧ください。
縄文時代
前回の復習になりますが,今から約250万年前に地球は氷河時代を迎えましたね。
地球の陸地の約3分の1が氷におおわれる氷期と,温暖な気候の間氷期が繰り返されました。そして,今から約1万年前に氷河時代が終わり,温暖な気候になっていきました。
氷がとけることで海面が上昇し,ユーラシア大陸と陸続きだった日本列島は切り離されて今の形になりました。
当時,日本列島に住んでいた人々は狩りや採集,漁をすることで食料を確保していて,集めた木の実などを保管したり,食べ物を煮たりするために土器を使用していました。
この土器の特徴は厚手で黒褐色,表面に縄目の文様が描かれていたため,そこから縄文土器と呼ばれています。
そしてこの縄文土器を使用していた時代を縄文時代と呼びます。
また,この当時は磨製石器も使用されていたので,縄文時代は世界の時代区分でいうと新石器時代にあたりますよ。
縄文時代の生活
先ほども書いたように,縄文時代は狩りや採集,漁で食料を確保していました。
そして海岸や水辺には,食べ物の残りや貝殻などを捨てる貝塚ができました。
住まいは竪穴住居といいます。地面を掘ってくぼみを作って,そこに柱を立ててわらなどで屋根をかけた形式の住居で,そこに集団で住んでいました。
また,魔除けや食べ物がたくさんとれることを祈って,土偶という土の人形のようなものを作成しました。
他には遺体の手足を曲げて,身体を丸めた姿勢で埋葬する屈葬も行われていました。
なぜ屈葬をしていたのかは諸説ありますが,現在有力な説は,遺体に悪霊が乗り移って出てくるのを防ぐためというものです。
屈葬された遺体には重しとして石を抱いているものや縛りつけられているものがあるようで,身体を丸めて固定して,遺体が悪霊に動かされないようにしていたと考えられています。
縄文時代を代表する遺跡では,青森県の三内丸山遺跡が有名です。テストでもよく聞かれるのでしっかり覚えておきましょう!
弥生時代
紀元前4世紀頃に,中国や朝鮮から移り住んだ人によって稲作が伝わりました。この稲作の伝来をきっかけに,日本は大きく変化していくことになります。
また,この当時は薄手でやや固い赤褐色の土器が使われていました。
この土器は東京都文京区弥生町の向ヶ岡貝塚で発見されたので,その地名をとって弥生土器と呼び,そこからこの時代を弥生時代と呼ぶようになりました。
弥生時代の生活
稲作が伝わったことにより,人々は水田に適した場所に大人数で暮らすようになります。
また,稲作に適した道具なども作られるようになりました。稲刈りに使う石包丁や,田んぼで作業するときに足が沈まないようにする田下駄などですね。
他には,収穫した稲を保存しておくための高床倉庫も作られました。
高床にして地面と接しないようにすることで湿気対策をしたり,ネズミが入って来られないような仕組みがあるなど,工夫された設計になっていました。
稲作以外にも青銅器や鉄器といった金属器も伝わり,祭りの宝物として銅鏡や銅鐸が使用されたり,鉄を使った武器や農具も作られました。
クニの成立
稲作の伝来によって水田の近くには人が集まってムラができるようになりました。
するとムラの中にはそのムラをまとめるリーダーが出てきて,徐々に身分の差も生まれてきます。
さらに今度は,稲作に必要な土地や水をめぐってムラ同士でも争うようになっていきます。そして勝ったムラが負けたムラを吸収して大きくなっていき,クニが誕生しました。
弥生時代の代表的な遺跡は,静岡県の登呂遺跡と佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。
特に吉野ヶ里遺跡は周りが堀や柵で囲まれていて,周囲を監視するための物見やぐらなども見られます。こういった集落のことを環濠集落と言います。
吉野ヶ里遺跡から,この当時は争いがあったことがハッキリと分かりますね。敵の侵入を防ぐために堀や柵を設置していたわけです。
中国の歴史書における日本
弥生時代になり,稲作が伝わって日本は大きく変化していきましたが,この当時の日本にはまだ文字が存在していませんでした。
一方で中国にはすでに文字も書物も存在していました。この頃の中国はちょうど漢王朝の時代です。
そう考えると日本とは計り知れないほどの文明の差があったんですね。
そして中国の歴史書には,当時の日本の様子がいくつか記されています。ではどのように記されているのかを確認していきましょう。
『漢書』地理志
中国が漢(前漢)の時代に書かれた『漢書』という歴史書の中の地理志という章に,日本についての記述があります。
そこには,1世紀頃の日本海の反対側には倭(日本)があり,倭には100余りの国があったと書かれています。
倭の国の中には,漢に使いを送って貢物を渡す国もあったそうです。
『後漢書』東夷伝
中国が漢(後漢)の時代に書かれた『後漢書』という歴史書の中の東夷伝という章には,倭の中の奴国という国についての記述があります。
奴国は1世紀半ばに漢に使いを送り,中国の皇帝である光武帝から「漢委奴国王」と刻まれた金印を授けられたと書かれています。
この金印は江戸時代に福岡県の志賀島で発見されました。
『魏志』倭人伝
中国では後漢が滅びた後,魏・呉・蜀という三国に分かれて覇権を争う三国時代に突入していました。
この当時の内容をまとめた『三国志』という歴史書の中の『魏志』にある倭人伝というページに,あの有名な邪馬台国に関することが載っています。
そこには,3世紀頃の倭には30ほどの国を従える邪馬台国という国があり,卑弥呼という女王が治めていたと書かれています。
卑弥呼も魏に使いを送っていて,魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印などを授けられたそうです。
縄文時代と弥生時代 まとめ
以上が人類の誕生と世界の古代文明のまとめになります。
縄文時代と弥生時代の違いはテストでも頻出です。稲作が伝わりムラができるようになって,争いも生まれ,その争いに勝利したムラがクニとなった,という流れをしっかりと理解しておきましょう。
次回は古墳時代についてまとめていきます。次回もお楽しみに!
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