<中学歴史解説>富国強兵と征韓論

明治時代

【前回のおさらい】明治維新

戊辰戦争に勝利した新政府は,天皇を中心とした中央集権国家をつくるために様々な改革を実施していきました。これがいわゆる明治維新でしたね。

今回はその続きで,さらなる日本の改革と外交関係について見ていきます。

新政府内でも,考え方の違いから対立も生まれてきますよ。では内容を確認していきましょう!

幕末と戊辰戦争,明治維新についてのまとめはこちらから!

日本史をまとめるにあたって,参考にした資料は以下の2冊です。

created by Rinker
¥523 (2024/05/14 20:21:58時点 楽天市場調べ-詳細)

富国強兵と殖産興業

話は少し前後しますが,明治政府は日本を欧米諸国に対抗できる近代国家にするために,1つの目標を掲げていました。その目標のことを富国強兵ふこくきょうへいと言います。

要するに経済を発展させて,軍事力を強化しようということです。

そして富国強兵を実現するために行ったことが,前回説明した「学制」「徴兵令」「地租改正」になります。

これらに加えてもう1つ政府が行ったことが殖産興業しょくさんこうぎょうです。

殖産興業とは,産業を発展させるために進んだ技術や機械などを取り入れていくという方針になります。

具体的には,郵便制度の実施や鉄道の開通(1872年に新橋‐横浜間,1874年に神戸‐大阪間)があります。

他にも富岡製糸場とみおかせいしじょう(群馬)などの官営模範工場かんえいもはんこうじょうを設立しました。世界文化遺産にもなっていますね。

官営模範工場とは,政府が直接経営する工場のことです。

海外の技術を導入した工場をつくり,それをお手本にしてもらうことで,日本全体に高い技術を広めていこうと考えました。

また,富岡製糸場の設立には2024年に発行される新1万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一も関わっています。

渋沢栄一は500以上の企業の設立や運営に携わったと言われている「日本資本主義の父」です。

あまりの功績の多さから,行ったことを1つに絞るのは難しいですが,よく紹介されることでいうと,日本で初の銀行を設立しました。気になった方は,他にどんなことをしたのかぜひ調べてみてください。

渋沢栄一の生涯を描いた大河ドラマ『晴天を衝け』ですが,今ならU-NEXT内にある「NHKオンデマンド見放題パック」を利用することで好きなだけ見ることができます!今放送中の『どうする家康』もなんと見放題です!

「NHKオンデマンド見放題パック」は月額990円(税込)ですが、U-NEXTは登録後31日間は無料となります。

さらにU-NEXTの初回登録時に1,000円分のポイントが付与されちゃいます!

2か月目以降も毎月1,200円分のポイントが付与されるので,つまりその後もU-NEXTの月額料金のみで大河ドラマも見放題ということです。

上記以外にも,蝦夷地北海道と改めて,開拓のために開拓使という役所を設置しました。

そして東北の士族などを屯田兵とんでんへいとして募集して,農業や警備を行わせました。

ただ,このとき元々北海道に住んでいた先住民のアイヌの人々は土地を奪われました。

さらに同化政策によって,アイヌの伝統や文化も否定され,日本人に同化させられてしまいました。

最後に,明治時代になって欧米の文化が積極的に取り入れられるようになったので,生活スタイルも西洋風になっていきました。これを文明開化といいます。

具体的には,レンガ造りの建物やガス灯,洋服やコートなどが増加しました。また,太陽暦も取り入れられて1週間が7日になり,日曜日が休日となりました。

明治政府の外交

明治政府の大きな課題は,幕末に結んだ不平等条約を改正することです。

領事裁判権を認める関税自主権がないといった内容でしたよね。そのために岩倉使節団も派遣されました。

ただ,この時の日本はまだ改革途中だったので,欧米諸国には相手にされませんでした。

そこでまずは清や朝鮮などアジアの国に対しての立場を強めて,欧米諸国との交渉を進めていこうと考えました。

日清修好条規

まず日本は清と対等な立場で条約を結ぼうとしました。というのも,朝鮮は清の属国であり,清に対して朝貢していました。

そのため日本が清と対等な関係になれば,日本は朝鮮に対しても優位な立場になれます。そして1871年日清修好条規を結びます。

征韓論

日清修好条規を結び朝鮮と交渉を行いますが,当時の朝鮮は鎖国状態だったので,日本と国交を結ぶことを拒否します。

そのため日本に残っていた西郷隆盛板垣退助らは,武力によって無理やり朝鮮を開国させてしまおうという征韓論せいかんろんを主張しました。

しかし岩倉具視大久保利通をはじめとする海外組は,征韓論に反対します。海外を見てきた彼らは,何よりも優先すべきは国内の改革だと考えたわけですね。

結果として征韓論は否定され,この論を主張していた西郷隆盛と板垣退助は政府を去ることになります。ついに政府内部でも分裂が起きてしまったわけですね。

後にこの2人はそれぞれ別の方法で政府と対立することになります。それは次回説明していきます。

日朝修好条規

征韓論は否定されたわけですが,1875年に朝鮮の江華島という島の近くで,日本軍が朝鮮軍に砲撃されたことをきっかけに報復に出て,江華島を占拠してしまいます(江華島事件こうかとうじけん)。

そして1876年,朝鮮と日朝修好条規を結び開国させました。これは朝鮮にとって不平等な条約でした。

征韓論を否定したにも関わらず,結局武力で開国させたというわけですね。

樺太・千島交換条約

この当時のアジアは国境線が曖昧な状態で,北海道の北にある樺太からふと(サハリン)と,北海道の東にある千島列島(北方領土)はどの国の領土か決まっていませんでした。

そこで1875年に日本はロシアと樺太・千島交換条約を結び,樺太はロシア領,千島列島は日本領となりました。

琉球処分

江戸時代から琉球王国薩摩藩が支配していましたが,琉球王国は清にも朝貢していたため,日本と清の二重支配のような状態になっていました。

そこで日本は1872年に琉球王国を琉球藩としますが,当然清はこれを認めません。

しかし1879年に琉球に軍隊を派遣して強引に琉球藩を廃止して沖縄県を設置し,日本の領土としました。この出来事を琉球処分といいます。

明治政府の外交関係 まとめ

以上が明治政府の外交関係になります。

国内を整備しつつ,不平等条約の改正のための足がかりとして,清や朝鮮と交渉を始めていきました。

結果的に交渉は成立するわけですが,一方で政府内部で考えの違いから分裂が起こります。

そして次回は政府を去ることになった西郷隆盛と板垣退助が政府と対立します。

西郷隆盛は西南戦争,板垣退助は自由民権運動をそれぞれ起こします。

武力と言論という両極端な方法で政府と戦った彼らの動きを次回は解説していきます!ぜひ楽しみにしていてください!

中学校では習わないようなプラスアルファの内容も含んでいますが,高校で習うのでまとめて覚えておくと便利かと思います!

何を学ぶにしても,まずは基本をしっかり理解して土台を作ってあげることです!

この記事を土台にして,そこから自分で調べてさらに積み上げていってください。

また,そこで知った知識を私にも共有してもらえると大変うれしいです!知識はアウトプットすることで初めて定着します。アウトプット相手にも,ぜひこのブログを活用してください!

明治時代歴史
その他の記事はこちら!
SNSのフォローもお願いします!

コメント