<中学歴史解説>外国の接近と天保の改革

歴史

【前回のおさらい】田沼の政治と寛政の改革

前回は田沼意次の商業を中心とした政策と,松平定信の農業を中心とした寛政の改革を見ていきました。

>田沼の政治と寛政の改革

結果的に,改革は幕府の財政を立て直すところまでは行かず,次第に江戸幕府の力も衰えていきます。

そんな中でロシアをはじめとする諸外国が日本に近づくことが増えてきました。徐々に鎖国体制も終わりが見えてきますよ。

今回は外国の接近と,江戸三大改革の最後の1つ,水野忠邦による「天保の改革」をまとめていきます!

外国の接近によって幕府の体制はどう変わっていったのか,そして天保の改革の結果,幕府はどうなったのか。この流れを確認していきましょう。

前回までの江戸幕府についてのまとめはこちらから!

日本史をまとめるにあたって,参考にした資料は以下の2冊です。

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外国の接近

ラクスマンが大黒谷光太夫を送り届ける

1792年ロシアラクスマンがロシアに漂流した船乗りの大黒屋光太夫だいこくやこうだゆうを根室(北海道)に送り届けました。

そしてそのままロシアは,江戸幕府に対し交易をしようと求めました。

ただ,根室に幕府の重要な役人はいないので,長崎で交渉をしようと幕府は回答しました。

レザノフの来日

1804年ロシアレザノフが長崎へ来日して交渉を行いますが,幕府は朝鮮,琉球,オランダ,中国以外とは交易をしないとして断りました。

ちなみに1808年に,探検家の間宮林蔵まみやりんぞうが幕府の命を受けて蝦夷地の調査を行い,シベリアと樺太樺太の間に海峡があることを発見しました。この海峡は「間宮海峡まみやかいきょう」と呼ばれます。

間宮海峡

異国船打払令

ロシアの接近を機に,イギリスやアメリカの船もやってくるようになったので,1825年異国船打払令いこくせんうちはらいれいを発布しました。

これによって,外国船が日本に近づいてきたら砲撃して追い返すようになりました。

蛮社の獄

異国船打払令発布後の1837年,モリソン号事件が起こります。

モリソン号事件とは,日本の漂流民を助け引き渡しに来たアメリカのモリソン号を砲撃してしまうという内容です。

結果的に砲撃はまったく届かずモリソン号は無傷でしたが,この行為が国内で批判されました。

このとき幕府の鎖国体制と異国船打払令を強く批判した人物が渡辺崋山わたなべかざん高野長英たかのちょうえいでした。

そして1839年,彼らは幕府に捕らえられ処刑されてしまいます。この出来事を蛮社の獄ばんしゃのごくといいます。

天保の薪水給与令

1842年,幕府は異国船打払令を緩和し,遭難した外国船に限り食料や燃料の補給を認めるとする天保の薪水給与令てんぽうのしんすいきゅうよれいを発令しました。

この発令には,1840年アヘン戦争でイギリスが清を破ったことも影響しています。江戸幕府は清を強国だと思っていたので,そんな清が負けるくらいイギリスが強いことに驚きました。

そのため異国船打払令を続けて,外国の怒りを買うようなことになったら危ないと考えて緩和したんですね。

ちなみにアヘン戦争とは,イギリスが清との貿易によって少なくなっていた銀を入手するために,インドから清にアヘンという麻薬を売ったことが原因で起きた戦争です。

インドからアヘンを清に密輸して,清にはアヘンを銀で購入させます。そしてイギリスはインドに綿織物を輸出して,その対価として銀を受け取りました。

こうすることで,イギリスは銀の流出を防ぎました。この貿易を三角貿易と呼びます。

三角貿易

この結果,清にはアヘン中毒になってしまう人が続出したため,アヘンを厳しく取り締まりました。それに対して怒ったイギリスは清に攻撃をしかけ勝利しました。

水野忠邦の天保の改革

松平定信による寛政の改革の後,幕府はこれといった改革を行うことはできませんでした。

そんな中1833年には天保の飢饉が起こり,再び全国が凶作に見舞われました。百姓一揆打ちこわしも増加し,国内が乱れていきます。

しかしそのような状況でも,米を江戸から大阪に送らせ自分たちを優先する幕府や,食べ物の値段を上げて金儲けしようとする商人に腹を立てた大塩平八郎が,1837年に反乱を起こします(大塩平八郎の乱)。

大塩平八郎は元の幕府の役人でした。この乱はすぐに鎮圧されましたが,元幕府の人間が反乱を起こしたことが幕府に衝撃を与え,これが天保の改革を行うきっかけになりました。

そして1841年老中水野忠邦が幕府の力を回復させるために天保の改革を始めました。では内容を見ていきましょう。

株仲間の解散

田沼意次の時代に認められていた株仲間を解散させ,物価の上昇を抑えようとしました。

人返し令

人返し令ひとがえしれいは,百姓が農村を離れて江戸に住むことを禁止した命令です。寛政の改革にあった帰農令と似たような内容ですね。

江戸に出稼ぎにくる場合は領主の許可が必要になりました。また,江戸にすでに住んでいても独り身の場合は,農村に帰るように命じられました。

上知令

上知令あげちれいとは,江戸や大阪周辺の高い収穫高が見込める土地を幕府の直轄地(幕領)にし,収穫高が低い土地を大名や旗本にあげようという内容です。

これによって幕府の財政を安定させようとしましたが,当然大名や旗本は反対するので失敗に終わりました。

水野忠邦の失脚

なんとか幕府の力を回復させようとした水野忠邦でしたが,百姓や大名たちの支持は得られず,わずか2年ほどで終わりを迎えました。

徳川吉宗から始まった改革も幕府の力を回復させるには至らず,ここから江戸幕府の衰退がドンドン始まっていきます。

田沼の政治と寛政の改革 まとめ

以上が外国の接近水野忠邦天保の改革になります。

鎖国の終わり,そして江戸幕府の終わりが徐々に見えてきましたね。

ついに次回はペリーが日本にやってきます!

ペリーが来たときの幕府の対応。なぜ江戸幕府は滅亡してしまったのか。このあたりを丁寧にまとめていくので次回もお楽しみに!

中学校では習わないようなプラスアルファの内容も含んでいますが,高校で習うのでまとめて覚えておくと便利かと思います!

何を学ぶにしても,まずは基本をしっかり理解して土台を作ってあげることです!

この記事を土台にして,そこから自分で調べてさらに積み上げていってください。

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