【前回のおさらい】明治時代の外交
前回は明治政府の外交関係を見ていきました。
幕末に結んだ不平等条約を改正するために,まず清や朝鮮と条約を結びました。
ただ,このときに朝鮮を武力で開国させるという征韓論を巡って,政府内の意見が対立していましたね。そして征韓論を主張していた西郷隆盛と板垣退助は政府を去りました。
今回はそんな二人が政府と戦う様子を解説していきます。
それぞれどういった形で政府と戦っていったのか。両者の違いと流れをしっかり掴んでいきましょう。
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日本史をまとめるにあたって,参考にした資料は以下の2冊です。
西郷隆盛と西南戦争
征韓論を主張していた西郷隆盛は政府を去った後,故郷の薩摩(鹿児島)に戻ります。
すると元々薩摩藩の藩士だった士族の人たちは大喜びします。というのも,明治時代になって士族は新政府に対して不満が溜まっていたのですね。
明治の三大改革の1つである徴兵令によって国の軍隊ができたため,士族の特権であった帯刀はなくなりました。
さらに新政府は「四民平等」を目指したので,江戸時代は武士が中心の社会でしたが,この時代は農民や町人と同じ位置づけになっていました。
こういったことから新政府に対して不満が溜まっていたところに,薩摩藩の英雄である西郷隆盛が政府と対立して帰ってきたわけです。
西郷隆盛は初めから反乱を計画していたわけではありません。薩摩に戻ってからは若者の教育に力を入れました。
しかし政府としては,いつか西郷が反乱を起こすかもしれないと不安だったため,西郷の行動を邪魔していきます。
そして1877年,薩摩の士族の声もあり,ついに西郷隆盛は政府と戦うことを決意します。こうして西南戦争が始まりました。
しかし新政府軍には敵わず,最終的に西郷隆盛は自害をして西南戦争は終結しました。
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板垣退助と自由民権運動
西郷隆盛と同じく政府から去り土佐(高知)に戻った板垣退助は,西郷のような武力による反乱ではなく,言論によって政府と戦っていきます。
民選議院設立の建白書
政府を去った板垣は,現状の政府は藩閥政治を行っていると非難します。
藩閥政治とは,倒幕に貢献した薩長土肥の出身者ばかりが権力を握っている政治体制のことです。実際に,この当時の政府の中心人物も薩摩藩出身の大久保利通でした。
板垣退助はこの政治体制は良くないとし,政治は国民に選挙で選ばれた代表者による国会をつくって行われるべきだと主張します。
そして1874年に提出したのが民選議院設立の建白書です。
そしてこれがきっかけとなり,国民も政治参加する権利を求める声が各地に広がっていきました。この動きを自由民権運動といいます。
板垣は土佐で立志社という政治団体を結成し,活動を進めていきます。
国会期成同盟
自由民権運動がどんどん高まっていたので,板垣は1875年に愛国社を結成し,全国の自由民権運動をまとめていきました。
さらに1880年に,大阪で愛国社が発展して国会期成同盟という政治団体になります。そして8万人以上の署名を集めて,政府に国会の開設や憲法の制定を要求しました。
そんな中で1881年に北海道開拓使官有物払い下げ事件が起こります。
これは国民の税金で運営している開拓使の施設を,当時の開拓使のリーダーである黒田清隆が友人にタダ同然の値段で売ろうとした事件です。
国民のお金で運営しているのにそれを友人に勝手に売ろうなどとしたら,当たり前ですが国民は激怒しますよね。
こういったこともあり,政府は国民の怒りを抑えるためにも10年後に国会を開設することを約束します。
また,このとき払い下げにずっと反対をしていた大隈重信は政府から追放されてしまいます。
国民側からすれば大隈重信の主張が正しいことになりますが,政府側からすれば裏切者ということになってしまいますからね。
自由党と立憲改進党
国会の開設が訳されたことを受けて,板垣退助はフランスの政党を参考に自由党を結成しました。政党とは同じ政治思想を持つ人たちのグループですね。
自由党は全国民に平等に参政権を与えるべきと主張し,士族や農民に支持されました。
また,政府を追放された大隈重信もイギリス流の政党である立憲改進党を結成します。
立憲改進党は一定額を納めた者にのみ参政権を与えるべきだという制限選挙を主張しました。
こうして政党の結成まで進みましたが,特に自由党は政府からの弾圧も受けることになりました。
また,増税などによって生活も大変苦しいものになっていたので,1884年に自由党の一部の人間が暴動を起こします。これを秩父事件と言います。
この暴動には5,000人ほどの参加者がいたとされており,かなり大規模なものでしたが,最終的には鎮圧されて自由党は解散することになります。
内閣制度
国会の開設と憲法の制定を約束した政府は,憲法制定のために伊藤博文をヨーロッパに派遣します。
そして君主権(王様の権利)が強いドイツの憲法を参考にすることにしました。
ちなみに当時のドイツはプロイセンという名前で,ビスマルクという首相がまとめていました。
1885年,国会の開設と憲法の制定に先立って内閣制度をつくります。
内閣とは政治を行う機関のことで,内閣のトップである内閣総理大臣とその他の大臣から成ります。
初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任しました。
大日本帝国憲法の発布
1889年2月11日,天皇が国民に与えるという形で大日本帝国憲法が発布されました。
このように王などの君主が制定する憲法のことを欽定憲法といいます。
内容としては,主権は天皇にあり,国民は天皇の家来である臣民とされました。
また,国民の権利は法律によって制限可能とされました。今の日本国憲法とは大きく異なる内容だったんですね。
1890年には教育勅語が出され,忠君愛国(天皇に忠誠を尽くし,自分の国を愛すること)が説かれました。
帝国議会
1890年に第1回衆議院議員総選挙が行われました。ついに選挙によって国民の代表者を選ぶことになりました。
しかしこのとき選挙権が与えられたのは,直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子のみとされ,この条件を満たすのは全人口の1.1%しかいませんでした。
ちなみに今の選挙権は満18歳以上の男女ですね。
またこのときの国会は帝国議会といって,現在と同じく二院制となっていましたが,当時は参議院ではなく貴族院という議院でした。
貴族院は皇族や華族といった高額納税者などから選ばれ,選挙は行われませんでした。
今と比較するとまだまだ課題が山積みな憲法と国会ですが,近代国家としての形を整えたことで,ようやく欧米とも交渉する土俵に上がることができました。
西南戦争と自由民権運動 まとめ
以上が西南戦争と自由民権運動になります。
政府を去った西郷隆盛と板垣退助は,武力と言論という相反する方法で政府と戦っていきました。そして板垣退助をきっかけに始まった自由民権運動によって,日本に国会と憲法が出来上がりました。
ここから明治政府の大きな課題であった不平等条約の改正に本格的に動き出していきます。
そして清やロシアとの戦争も起こります。学生だとテストでもよく出る部分になるので,しっかり流れを掴んでいきましょう。次回もお楽しみに!
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