前回は、平安時代の前半についてまとめました。
桓武天皇が平安京に都を移し、その後、藤原氏が摂政や関白となって政治の実権を握りました。また、遣唐使の廃止後には、かな文字や大和絵など、日本独自の国風文化が発展しました。
前回の内容は以下のリンクからご覧ください。
今回はその続きで、藤原氏の力が弱まっていくと、今度は天皇を退いた上皇が政治を行うようになります。そして、その中で大きな力を持つようになったのが武士です。
今回は、武士がどのように力をつけていったのか、そして平氏が政治の実権を握り、最後に滅んでいくまでの流れを解説していきます。
武士はなぜ登場したのか
平安時代の中ごろになると、地方では土地をめぐる争いが増えていきました。
このころ、貴族や寺社が支配する荘園が広がっていきます。荘園とは、簡単に言えば、貴族や寺社などが支配し、農民から年貢を取る土地のことです。
もともと土地を持っていた地方の有力者たちは、自分の土地を守るために、力のある貴族や寺社に土地を寄進しました。
寄進とは、自分の土地を貴族や寺社などに差し出すことです。
なぜそんなことをしたのかというと、貴族や寺社の土地になると、国に納める税を軽くできる場合があったからです。
ただし、荘園が増えると、土地の境界や年貢をめぐる争いも増えていきました。
そこで必要とされたのが、戦いの力を持つ武士です。
武士は、もともとは地方で土地を守るために武装した人々でした。やがて、同じ一族や地域の仲間でまとまり、武士団をつくるようになります。
その中でも、特に力をつけたのが平氏と源氏です。
地方で起こった武士の反乱
武士が力をつけ始めたことを示す大きな出来事が、平将門の乱と藤原純友の乱です。
935年、関東地方では平将門が反乱を起こしました。
平将門は、朝廷に対する不満から、関東で独自の政治権力をつくろうとしました。
また、939年には、瀬戸内海周辺で藤原純友が反乱を起こしました。藤原純友は、瀬戸内海の海賊を率いて朝廷に反抗しました。
この2つの反乱は、地方で武士が大きな力を持ち始めたことを示しています。
東北地方で力をのばした源氏
その後、東北地方でも大きな戦いが起こります。
11世紀には、前九年合戦と後三年合戦という争いが起こりました。
この戦いで活躍したのが源義家です。
源義家は、東北地方の争いを平定し、その結果、源氏は関東地方の武士たちから信頼を集めるようになりました。
これがのちに鎌倉幕府を開く源氏の一族の始まりです。
つまり、前九年合戦や後三年合戦を通して、源氏は関東の武士と結びつきを強め、後の鎌倉幕府につながる土台をつくっていったのです。
奥州藤原氏と平泉
東北地方では、奥州藤原氏という一族も力を持ち、現在の岩手県にある平泉を中心に栄えました。
平泉には、中尊寺金色堂という有名な建物があります。中尊寺金色堂は、奥州藤原氏の繁栄を示す代表的な文化財ですね。

奥州藤原氏は、のちに源義経をかくまったことで源頼朝と対立し、滅ぼされることになります。
第二の権力者:白河上皇と院政の始まり
平安時代の前半は、藤原氏が摂政や関白として政治の実権を握っていましたが、11世紀後半になると、藤原氏の力はしだいに弱まっていきます。
その中で登場したのが、白河上皇です。
白河上皇は、天皇の位を子どもに譲ったあとも、上皇として政治を行いました。
このように天皇を退いた上皇が行う政治を院政といい、1086年に始まりました。上皇の住まいを院と言うため、院で行った政治=院政です。
院政のポイントは、上皇が摂政や関白の力をおさえて政治の実権を握り、白河上皇は藤原道長に次ぐ第二の権力者になったということです!
白河上皇がいかに強大な権力を持ったいたのかを示す有名な言葉があります。
「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ我が心にかなはぬものや。」
この言葉の意味は「賀茂川の水の流れ、双六のサイコロの目、比叡山延暦寺の僧兵だけは、自分の思い通りにならない。(それ以外はすべて自分の思い通りになる)」というものです。
・賀茂川の水=京都を流れる川で、川の流れや洪水は自然のものなので、上皇でも自由にできません。
・双六の賽=「賽」はサイコロのことで、サイコロの出る目は運なので、上皇でも思い通りにできません。
・山法師=比叡山延暦寺の僧兵のことで、当時寺社は強い力を持ち、武装した僧兵が朝廷に圧力をかけることもありました。
また、白河上皇の大切なポイントとして、政治をより強固なものにするために、武士を利用するようになりました。
つまり、院政の時代になると、武士は朝廷の争いにも深く関わるようになっていったのです。
保元の乱
1156年、保元の乱が起こります。
これは、上皇と天皇の対立をきっかけに起こった戦いです。
院政では上皇(当時は崇徳上皇)が大きな力を持っていましたが、後白河天皇側は上皇に政治を動かされるのではなく、自分たちが政治の中心になろうとしました。
この争いには、平氏や源氏などの武士も加わり、結果として平氏と源氏が加わった後白河天皇側が勝利します。
保元の乱によって、武士の存在感はさらに大きくなりました。
平治の乱
保元の乱のあと、1159年に平治の乱が起こります。
これは朝廷内部の権力争いに、平氏と源氏の対立が重なって起こった戦いです。
この戦いでは、平清盛が率いる平氏が勝利しました。
一方、源義朝は敗れ、その子である源頼朝は伊豆に流されます。
平清盛の政治
平治の乱に勝利した平氏は、政治の実権を握るようになります。その中心人物が平清盛です。
1167年、平清盛は武士として初めて太政大臣になりました。
太政大臣とは、天皇のもとで政治を行う役職の中で、最高クラスの地位です。
平清盛は武士でありながら、この役職に上りつめるほどの権力を手にしていたのです。
さらに清盛は、自分の娘を天皇と結婚させ、天皇家との結びつきを強めました。
これは、藤原氏が行った摂関政治とよく似ていますね。
平清盛も、天皇家と親戚関係をつくることで、一族の力を強めようとしたのです。
日宋貿易と大輪田泊
平清盛は、政治だけでなく貿易にも力を入れました。
清盛は、兵庫の港である大輪田泊を整備し、中国の宋と貿易を行いました(=日宋貿易)。
宋からは、銅銭や陶磁器、絹織物などが輸入され、平清盛は大きな利益を得ます。
清盛は、貿易によって得た富をもとに、さらに平氏の力を強めていきました。
「平家にあらずんば人にあらず」
平氏が政治を独占するようになると、平氏一族はどんどん力を強めました。
その様子を表す有名な言葉が「平家にあらずんば人にあらず」です。
これは、平氏でなければ人ではない、という意味です。
このような言葉が生まれるほど、当時は平氏の力が絶大だったということですね。
しかし、このように平氏が政治を独占すると、当然他の貴族や武士たちの不満が高まっていきます。
この不満が、やがて平氏打倒の動きにつながっていきます。
源頼朝の挙兵
1180年、源頼朝が伊豆で兵を挙げました。
頼朝は、平治の乱で敗れた源義朝の子で、平治の乱の後で伊豆に流されていましたね。
頼朝は関東の武士たちを味方につけ、鎌倉(神奈川)を拠点に勢力を広げていきます。
ここで重要なのは、頼朝が関東の武士たちの支持を集めたことです。
源氏は、前九年合戦や後三年合戦のころから関東の武士たちと結びつきがありました。
そのため、頼朝は関東で力を伸ばすことができたのです。
平氏の滅亡
源頼朝が東国で力を広げる一方で、源氏側の武士たちは各地で平氏と戦いました。
その中でも有名なのが、源頼朝の弟である源義経です。
義経は、一ノ谷の戦いや屋島の戦いなどで活躍し、平氏を追いつめていきました。
そして1185年、現在の山口県下関市付近にある海、壇ノ浦で戦いが起こります(=壇ノ浦の戦い)。
この戦いで、源義経らの軍が平氏を破り、平氏は滅亡しました。
これにより、平清盛が築いた平氏政権は終わりを迎えます。
そしてこの後、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ、本格的な武士の政治が始まっていきます。
武士の台頭から平氏の滅亡までの流れ
最後に、流れを整理しておきましょう。
土地をめぐる争いが増える
↓
武士が必要とされる
↓
武士団がつくられ、平氏や源氏が力をつける
↓
平将門の乱・藤原純友の乱が起こる
↓
前九年合戦・後三年合戦で源氏が関東で力を強める
↓
藤原氏の力が弱まり、白河上皇による院政が始まる
↓
保元の乱・平治の乱で武士の力がさらに強まる
↓
平治の乱に勝利した平氏が政治の実権を握る
↓
平清盛が太政大臣となり、日宋貿易で富を得る
↓
平氏への不満が高まる
↓
源頼朝が挙兵する
↓
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡する
まとめ
平安時代の後半になると、土地をめぐる争いが増え、武士の力が強まっていきました。
最初は地方の土地を守る存在だった武士は、やがて朝廷の争いにも関わるようになります。
保元の乱や平治の乱では、天皇や上皇、貴族の争いを武士の力で解決するようになりました。
その中で台頭したのが平清盛です。
清盛は武士として初めて太政大臣となり、日宋貿易によって大きな富を得ました。
しかし、平氏が政治を独占したことで、貴族や地方の武士たちの不満が高まります。
そして源頼朝が挙兵し、最終的に1185年の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡しました。
この後、日本の政治は貴族中心から武士中心へと大きく変化していきます。
次回は、源頼朝がどのようにして鎌倉幕府を開き、武士による政治を始めたのかを解説していきます。


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